利根川進さんが死去、86歳|死因は非公表?ノーベル賞の研究内容・抗体の仕組みを解説
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日本人で初めてノーベル生理学・医学賞を受賞した分子生物学者の利根川進さんが、2026年7月11日に86歳で亡くなりました。長年教授を務めた米マサチューセッツ工科大学(MIT)や京都大学、理化学研究所が相次いで訃報を発表しています。
突然の訃報に、「利根川進さんの死因は何だったのか」「病気や持病があったのか」と気になった人も多いはずです。ただ、2026年7月19日時点で、MITや京都大学、理化学研究所の公式発表には、具体的な死因や病名は記載されていません。
この記事では、利根川進さんが亡くなった日や年齢、死因の公表状況を最初に紹介します。さらに、1987年にノーベル賞を受賞した理由や、抗体に関する研究内容、代表的な論文、受賞時の年齢、ノーベル賞後に取り組んだ脳科学まで一つずつ詳しく見ていきます。
利根川進さんが死去、86歳|死因や病気は公表されている?
利根川進さんの死去について、公式に確認できる主な内容は次のとおりです。
- 2026年7月11日に死去
- 亡くなった年齢は86歳
- MITが2026年7月15日に訃報を発表
- 京都大学と理化学研究所も7月16日に発表
- 死因や詳しい病名は公表されていない
- 長期の闘病や入院に関する説明も発表文にはない
利根川進さんは2026年7月11日に86歳で死去
利根川進さんは、2026年7月11日に86歳で亡くなりました。MITは同年7月15日、利根川進さんが亡くなったことを公式サイトで発表しています。
翌日の7月16日には、母校である京都大学や、脳科学研究に長く携わった理化学研究所からも訃報が発表されました。日本のテレビ各局も「日本人で初めてノーベル生理学・医学賞を受賞した科学者」として、利根川進さんの死去を大きく報じています。
利根川進さんは1939年9月5日生まれです。87歳の誕生日を迎える約2か月前に亡くなったことになります。
利根川進さんの死因は公表されていない
利根川進さんの死因については、2026年7月19日時点で公式な発表を確認できません。
MITの訃報では、亡くなった日と年齢、研究者としての功績が詳しく紹介されていますが、死因や病名についての記載はありません。京都大学と理化学研究所の発表にも、死因や亡くなる前の体調に関する説明は掲載されていません。
そのため、「利根川進さん死去の死因は何だったのか」という疑問への現時点の答えは、死因は公表されていないとなります。
理化学研究所は発表文で「突然の悲報」と表現していますが、これは具体的な病気や急死の原因を示したものではありません。病名や持病についても、公式発表にない内容を結びつけることはできません。
入院や闘病、亡くなる前の体調も明らかにされていない
利根川進さんが亡くなる前に入院していたのか、何らかの病気で闘病していたのかについても、詳しい情報は公表されていません。
MITの訃報は、利根川進さんの生い立ちや研究歴、ノーベル賞受賞後の脳科学研究を中心に構成されています。長期療養や活動休止、手術などに関する説明はありません。
一方、MIT生物学部の研究者ページには、利根川進さんが共著者となった2025年の論文も掲載されています。ただし、論文に名前が掲載されていることだけで、亡くなる直前までの体調や研究室での活動状況を判断することはできません。
亡くなる前の詳しい様子が発表されていないため、突然の訃報に驚いた人が多かったのも無理はありません。
葬儀やお別れの会に関する発表はある?
利根川進さんの葬儀やお別れの会についても、MIT、京都大学、理化学研究所の発表では詳しい日程が案内されていません。
公式発表はいずれも、亡くなった日や年齢、研究上の功績を伝える内容が中心です。一般の人が参列できるお別れの会などが開かれるかどうかは、2026年7月19日時点では確認できません。
今後、大学や研究機関から追悼行事が案内されることはあり得ますが、現段階では未発表です。
利根川進さんのプロフィール
| 項目 | 内容 | 補足 |
|---|---|---|
| 名前 | 利根川進 | とねがわ・すすむ |
| 生年月日 | 1939年9月5日 | ノーベル賞公式サイトに記載 |
| 死去日 | 2026年7月11日 | MIT・京都大学・理化学研究所が発表 |
| 没年齢 | 86歳 | 87歳の誕生日前に死去 |
| 出生地 | 愛知県名古屋市 | ノーベル賞公式サイトに記載 |
| 職業 | 分子生物学者・神経科学者 | 免疫学と脳科学を研究 |
| 出身大学 | 京都大学理学部 | 1963年卒業 |
| 主な所属 | マサチューセッツ工科大学 | 1981年に教授就任 |
| ノーベル賞 | 生理学・医学賞 | 1987年に単独受賞 |
| 受賞理由 | 抗体多様性の遺伝的原理の発見 | 抗体遺伝子が組み替わる仕組みを解明 |
| 死因 | 非公表 | 公式発表に記載なし |
利根川進さんは京都大学理学部を卒業後、米カリフォルニア大学サンディエゴ校で博士号を取得しました。その後、スイスのバーゼル免疫学研究所を経て、1981年にMITの教授に就任しています。
利根川進のノーベル賞研究内容をわかりやすく解説
利根川進さんのノーベル賞に関する主なポイントは、次のとおりです。
- 1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞
- 日本人として同部門初の受賞者
- 受賞時の年齢は48歳
- 受賞理由は「抗体の多様性を生み出す遺伝的原理」の発見
- 抗体の遺伝子が細胞内で組み替わることを証明
- 1976年に発表した研究が大きな転機になった
- 1983年には研究成果をまとめた論文を『Nature』に発表
利根川進は1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞
利根川進さんがノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、1987年です。受賞理由は、ノーベル賞公式サイトで「抗体の多様性を生み出す遺伝的原理の発見」と説明されています。
当時の所属はMITで、利根川進さんは他の研究者との共同受賞ではなく、単独で受賞しました。ノーベル賞公式サイトでも賞の配分は「1分の1」と記載されています。
利根川進さんは1939年9月5日生まれなので、1987年のノーベル賞受賞時は48歳でした。日本人として初めてノーベル生理学・医学賞を受賞したこともあり、日本の科学史に残る出来事となりました。
ノーベル賞の研究内容は「抗体を大量に作り分ける仕組み」
利根川進さんのノーベル賞研究を簡単に表すと、限られた数の遺伝子から、なぜ膨大な種類の抗体を作れるのかを解明した研究です。
抗体とは、細菌やウイルスなど体内に入ってきた異物を見分け、結びつくタンパク質です。異物には非常に多くの種類があるため、人間の体はそれぞれに対応できる多数の抗体を用意しなければなりません。
ところが、抗体の種類に対して、人間が持っている遺伝子の数は限られています。当時は「遺伝子の数が足りないのに、なぜ何億種類もの抗体を作れるのか」が免疫学の大きな謎でした。
利根川進さんは、抗体ごとに完成済みの遺伝子が最初から用意されているのではなく、複数の遺伝子の部品を組み合わせて新しい抗体遺伝子を作っていることを示しました。ここがノーベル賞につながった大きな発見です。
抗体遺伝子のV・D・Jを組み替える仕組み
抗体の形や働きを決める遺伝子は、最初から一本の完成した状態で並んでいるわけではありません。抗体を作るBリンパ球が成長する途中で、離れた場所にある複数の遺伝子部分が選ばれ、つなぎ合わされます。
抗体の重鎖と呼ばれる部分では、主にV、D、Jという3種類の遺伝子部分から、それぞれ一つずつが選ばれます。選ばれる組み合わせが変わることで、数多くの異なる抗体を生み出せるのです。
たとえるなら、少ない種類の部品を自由に組み替えて、膨大な種類の製品を作る仕組みに近いでしょう。同じ部品箱を使っていても、選び方や並べ方が変われば、完成品は大きく変わります。
ノーベル賞公式サイトでは、車の部品や番号の組み合わせにたとえて、この仕組みを紹介しています。難しく見える研究ですが、「遺伝子の部品を組み替えて抗体を作る」と考えると分かりやすいですね。
なぜ利根川進の研究がノーベル賞に選ばれたのか
利根川進さんの研究が高く評価された理由は、長年解けなかった免疫学の謎を、遺伝子レベルの実験によって証明したことにあります。
それまで遺伝子は、受精した時点で決まった構造が保たれ、その後もほぼ変わらないものと考えられていました。ところが、利根川進さんは、Bリンパ球が作られる過程で抗体遺伝子の配置が変化し、必要な部分が組み替わることを示しました。
つまり、細胞が成長する途中でDNAの並び方を変え、新しい機能を持つ遺伝子を作っていたのです。これは抗体が多様になる理由を説明しただけでなく、遺伝子に対する当時の理解にも大きな変化をもたらしました。
ノーベル賞の発表では、利根川進さんの発見が免疫の基本構造に対する理解を深め、ワクチンや移植時の免疫反応、自己免疫疾患などを研究する土台にもなったと説明されています。
1976年の論文で抗体遺伝子の組み替えを証明
利根川進さんのノーベル賞につながった代表的な論文の一つが、1976年に穂積信道さんと共同で発表した「Evidence for somatic rearrangement of immunoglobulin genes coding for variable and constant regions」です。
この研究では、マウスの胚細胞と、抗体を作る細胞のDNAを比較しました。その結果、胚細胞では離れていた抗体遺伝子の可変部と定常部が、抗体を作る細胞では近くにつながっていることが示されました。
研究結果は、抗体を作る細胞へ成長する過程で、遺伝子が組み替えられることを示す強い証拠となりました。ノーベル賞の公式発表でも、1976年の先駆的な研究によって、細胞が成長する途中でDNAの一部が配置し直されることを示したと紹介されています。
現在では「V(D)J遺伝子再構成」と呼ばれる仕組みですが、当時としては生物学の常識を大きく変える発見でした。
1983年の論文「Somatic generation of antibody diversity」
利根川進さんは1983年、イギリスの科学誌『Nature』に「Somatic generation of antibody diversity」という論文を発表しています。
この論文では、生殖細胞の段階では染色体上に離れて存在する複数の遺伝子部分が、Bリンパ球の成長過程で組み立てられ、一つの抗体遺伝子になる仕組みがまとめられました。遺伝子の組み替えに加え、細胞内で生じる変異も抗体の種類を増やすことが説明されています。
1976年の論文が遺伝子の組み替えを示す重要な実験報告だったのに対し、1983年の論文は、それまでの研究成果を広くまとめた総説です。ノーベル賞の公式発表でも参考文献として紹介されています。
「利根川進 ノーベル賞 論文」を調べている場合は、この1976年と1983年の2本を押さえておくと、受賞につながった研究の流れが見えやすくなります。
ノーベル賞後は脳科学へ|記憶の仕組みを研究
ノーベル賞受賞後の利根川進さんは、免疫学だけにとどまらず、脳科学という新しい分野へ進みました。
- 1981年にMIT教授へ就任
- 1994年に学習・記憶研究センターの初代所長
- 2009年から理化学研究所の脳科学総合研究センター長
- 記憶を保存する「エングラム細胞」を研究
- 光を使って神経細胞を操作する光遺伝学を活用
- 記憶の形成や想起、誤った記憶の仕組みを解明
免疫学から脳科学へ研究分野を変更
利根川進さんは抗体研究で世界的な成果を上げた後、研究対象を脳へと移しました。1981年にMITの教授に就任し、T細胞受容体の研究などを経て、学習と記憶の仕組みに取り組むようになります。
1994年には、MITの学習・記憶研究センターの初代所長に就任しました。この研究組織は、後にピカワー学習・記憶研究所へと発展しています。
すでにノーベル賞を受賞した分野にとどまるのではなく、全く異なる脳科学に挑んだ点も利根川進さんの大きな特徴です。新しい疑問を追い続ける研究姿勢が、次の発見につながりました。
記憶を保存するエングラム細胞を発見
脳科学分野で特に知られているのが、「エングラム」と呼ばれる記憶痕跡の研究です。
エングラムとは、経験した出来事の記憶を保存している特定の神経細胞群を指します。利根川進さんの研究チームは、マウスの脳内で特定の記憶に関わる神経細胞を見つけ、光を当ててその細胞を刺激することで、記憶を呼び起こすことに成功しました。
この研究には、特定の神経細胞を光で動かす「光遺伝学」という方法が使われています。記憶が単なる抽象的な概念ではなく、脳内の特定の細胞ネットワークに保存されていることを実験で示した成果でした。
さらに、既存の記憶を呼び起こしながら新しい経験をさせることで、マウスに本来とは異なる場所への恐怖を覚えさせる研究も行われました。記憶がどのように作られ、書き換えられるのかに迫った研究として注目されています。
理化学研究所のセンター長として日本の脳科学を牽引
利根川進さんは2009年4月から2017年6月まで、理化学研究所の脳科学総合研究センターで第3代センター長を務めました。
在任中には、MITと理化学研究所を結ぶ研究体制のもとで、記憶の形成や想起、保存に関する研究を進めています。エングラム細胞の発見だけでなく、記憶が海馬から大脳皮質へ移る仕組みや、アルツハイマー病モデルマウスの記憶を呼び起こす研究にも関わりました。
理化学研究所は訃報の中で、利根川進さんが築いた研究基盤や指導が、現在の脳神経科学研究センターにも受け継がれていると紹介しています。
ノーベル賞を受賞した抗体研究だけでなく、記憶研究でも世界的な成果を残したことが、利根川進さんの科学者としての幅広さを表しています。
利根川進さんが残した功績と科学界からの追悼
利根川進さんの訃報を受け、長く在籍したMITや京都大学、理化学研究所から追悼の言葉が発表されました。
- MITで40年以上にわたり研究と指導を続けた
- 京都大学理学部卒業後に渡米
- 免疫学と脳科学という二つの分野で成果を残した
- 1984年に文化勲章を受章
- 1987年にノーベル生理学・医学賞を単独受賞
- 次世代の研究者育成にも携わった
MITは「生物学への理解を大きく変えた科学者」と追悼
MITの訃報では、利根川進さんが免疫学と神経科学の両分野で画期的な発見を行ったことが紹介されています。
ピカワー学習・記憶研究所のミリアム・ハイマン所長は、利根川進さんが免疫学と神経科学に新たな研究領域を開いたとして、その影響は計り知れないと追悼しました。
利根川進さんはMITの教員として40年以上活動し、研究だけでなく、多くの研究者の指導にも携わりました。免疫学で完成された立場を築いた後も脳科学へ進んだ姿勢は、後に続く研究者にも大きな影響を与えています。
京都大学と理化学研究所も功績を紹介
京都大学は、利根川進さんが1963年に理学部を卒業し、海外で分子生物学と免疫学の研究を進めた経歴を紹介しています。
京都大学の湊長博総長は、利根川進さんが抗体遺伝子の再構成を発見した後も、脳科学へ研究分野を広げ、生涯にわたって第一線の科学者であり続けたとコメントしました。
理化学研究所も、抗体研究によるノーベル賞受賞後、記憶の物理的な実体であるエングラムの解明に取り組んだ功績を紹介しています。
抗体が多様になる仕組みと、脳が記憶を保存する仕組み。一見すると離れている二つの分野で、利根川進さんは長く答えが出なかった疑問に挑み続けました。
利根川進さんの死去・死因・ノーベル賞に関するまとめ
- 利根川進さんは2026年7月11日に86歳で死去した
- MITが2026年7月15日に訃報を公式発表した
- 京都大学と理化学研究所も7月16日に死去を発表した
- 2026年7月19日時点で死因や具体的な病名は公表されていない
- 入院や長期の闘病、亡くなる前の体調についても詳しい説明はない
- 利根川進さんは1939年9月5日に名古屋市で生まれた
- 1987年、48歳で日本人初のノーベル生理学・医学賞を受賞した
- 受賞理由は、抗体の多様性を生み出す遺伝的原理を発見したこと
- 抗体遺伝子の部品がBリンパ球の中で組み替わる仕組みを証明した
- 1976年の抗体遺伝子に関する論文が受賞につながる重要な成果となった
- 1983年には『Nature』に抗体多様性の研究をまとめた論文を発表した
- ノーベル賞後は脳科学へ進み、記憶を保存するエングラム細胞の研究でも成果を残した
利根川進さんは、抗体が膨大な種類を作り分ける仕組みを明らかにし、ノーベル賞受賞後も記憶の正体を追い続けました。免疫学と脳科学に残した発見は、今後も世界中の研究者によって受け継がれていくことでしょう。
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